吃音の3つの話し方について。連発はともかくブロック(難発)や伸発もどもりなの?

コラム

どうして自分はどもるのだろう? 不思議に思い、中学生のころ、図書館で調べたことがあります。(2000年前半は今ほどネットも普及していませんでした。)

吃音(どもり)について書いてあるところを読むと、症状として3つのどもり方が紹介されていました。
内容は、国立リハビリテーションセンターのHPに書いてあるようなことだったと思っています。

吃音(どもり)の症状|国立リハビリテーションセンター

音のくりかえし(連発)、例:「か、か、からす」
引き伸ばし(伸発)、例:「かーーらす」
ことばを出せずに間があいてしまう(難発、ブロック)、例:「・・・・からす」

連発と称される「音の繰り返し」は、世間一般的に知られている「どもり方」だと思います。
言葉の最初を何度も言ってしまいます。次の言葉(音)が出てこないことが、不思議で仕方がありません。
本当になんででしょう?すんなり次の言葉が出てきてくれないかなーと、いつも待ち望んでいます。

吃音の進展・進行|連発⇒伸発⇒難発(ブロック)

国立リハビリテーションセンターの吃音に関するページを読むと、どもりは2歳~5歳の幼児期に出やすいようです。そしてどもる幼児の7~8割が自然に治るみたいです。(「治る」と言うと、どもるのが病気みたいですね)

そして個人差はありますが、最初は連発だったのが、音を伸ばすように話す伸発に変わり、やがて間が開くように話すブロック(難発)へと進展していくようです。

当事者としては、納得できるような不十分なような、なんともな感じです。
間違ってはいないけれど、もうちょっとくみとってほしいなと思うところもあります。

伸発(伸ばして話す)も吃音の症状なの?

研究機関や医療専門職では、伸発も吃音の症状として定義しているところが多い印象があります。
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ただ、これも症状とされるのは、ちょっと不憫な気がします。
だって私は、「ことばの教室」でこの話し方を教わりました。

ことばの教室とは、小学校に併設されている教室です。「聞こえとことばの教室」や「通級指導教室」とも呼ばれることがあります。

通常の授業を抜けて、ことばの教室に通います。自分の学校にはなかったので、隣町の小学校まで行きました。母が毎週車で迎えに来てくれて、親の愛情に包まれていたなと感謝の気持ちばかりです。

言葉の教室(通級教室)での吃音の指導

ことばの教室には、楽しい思い出ばかりです。先生もとても良い人で、通えてよかったなと思います。
基本的に遊んでばかりでしたが(それも意図あってのこと)、話す練習を最初にすることがありました。
その時に教わったことが、音を伸ばす話し方です。あやふやですが、「どもりそうになったら、伸ばしてみるのはどうだろう?」のようなことを教わった気がします。

この話し方が当時の自分としてはイメージがよくなく、ちょっと試してすぐ止めました。先生は、吃音に関係なく、楽しく自己表現できることを大切にされる方だったので、その話し方を強制することはありませんでした。

ただ人によっては、伸ばして話すことが合う方もいると思います。どもらない方法として、自ら発見した人もいれば、教わってそのように話すようになった方もいると思います。
それなのに、症状として普通じゃない話し方かのように扱われるのはなんだかなーという思いです。

ブロック(難発)は闘っている証?

ことばを発するまでに、時間があくことが特徴の難発(ブロック)。吃音者がこの段階にはいることは、すごく共感できます。

繰り返すようにどもるとからかわれることがあるし、伸ばすように話しても笑われることがあります。中高校生ぐらいになると、そういった人も減ってきますが、自分自分がどもることを恥ずかしいことのようにも思ってしまいます。

イヤな体験や恥ずかしい気持ちがどんどん溜まっていくと、人と話すこと自体が怖くなってしまいます。どもらないように注意するようになって、ことばが繰り返しそうだなと思ったら黙ってしまいます。そして、そのまま黙り続けてしまったり、スッと出てくるまで待ち続けます。
連発がことばにしながらどもるとすれば、難発(ブロック)は言葉にしないでどもっているとも思います。

ブロック状態は周囲からすると、どもっていないように見えます。でも本当はどもってます。会話に参加しようとしています。愛想よくないと誤解されるけど、仲良くしたいと思っています。
ブロック状態は呼吸ができなくて苦しくて、笑顔が少なくなってしまうのは話そうと頑張ろうとしている時でもあるんです。

また吃音者は、成長するにつれ、どもらない工夫を色々と身に着けます。「言い換え」はよくある方法です。「ありがとう」の言葉が出てこない気配を感じたら、一瞬で「サンキュー」と言い換えて、会話に間が開くことはありません。

でも時と場合によっては、言い換えができないことや、言い換えをしたくない状況があります。
日本語が作れる空気を崩さすに、相手に伝えたい。気持ちを誤魔化さずに伝えたい。
ブロック状態で間が開いているときは、言い換えずに真摯に言葉を紡ごうと、闘っている証だとも感じます。

そのことを1人でも多くの人に知ってもらいたいと思ってしまうのは、自分の独りよがりなのかなあ。

どもってもいいと思えるのは、周囲に恵まれているから

どもることは怖いです。コンビニのレジで肉まんを買おうと「ににに、肉、肉まん」になってしまうとビックリされたり、ブロックで何も言わずにじっとしていると怪訝な顔をされたらと想像すると、とても怖いです。

でもどもっても怖くないと思えることもあります。親、家族、妻、友人、同僚など、どもってもじっと待ってくれたり、話し方よりも話す内容に心を向けてくれます。

そしてそのような親切な人たちは、実は街中にいっぱいいて、「どもることは恥ずかしい」と考えてしまうのは、自分の思い込みなのかなと気づくことも多いです。
そしてそのように思えるのも、周囲の人たちに恵まれているからで、感謝の気持ちでいっぱいです。

「どもるけど、いい人生」は、私一人では成り立たないと思うばかりです。

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